「南方熊楠」生誕150周年

南方熊楠が生まれて150年になるらしい。
東京上野の国立科学博物館で記念の企画展が開催されている。
「なかなかの評判」
ということで、足を運んでみた。

大英博物館でも資料をあさっていたようで、それらを抜き書きした、
「抜書」
という文書が展示されていた。
もちろん、展示こそその一部だが、これが膨大に存在しているという。
細かい字がびっしりと几帳面に書かれている。

彩色された菌類の絵などもあり、そちらも興味深かったのだが、
何よりも私は

「腹稿」
と言われる、
「抜書」という行為を通じて頭の中に記憶されている情報が、ネットワーク化されて書きだされている紙

の方に釘付けになった。
新聞紙の裏が使われることが多かったようだ。

なぜ釘付けになったか、といえば、私も同じような作業を仕事の上で行うことが多かったからだ。
(もちろん、熊楠と比較しようなどとは思っていない)

そこには、
「膨大な情報からそれをまとめていく、今の時代を予測していたかのような熊楠の知の構造」

と、いうような表現がされていたのだが、個人的には、
「逆ではないか」
と違和感を感じずにはいられなかった。

というのも、
今は、情報から検索、そして、また検索という流れで、情報が演繹的にネットワーク化されていく。
しかし、40代後半以上の方ならお分かりだろうが、ネットのない時代には、
「必要な情報を得るために、本をあさる」
という行為が必要で、必要な情報を得るためには、それ以外の多くの情報が無関係についてきた、という状況だったはずだ。
つまりは「あさるという行為の中」で「検索では獲得できなかったであろう膨大な知識」を得ることにつながっていたのだ。

それは、ECサイトでrecommend機能に慣らされて、お気に入りの情報のみが自然と得られているが、そうでない情報にはなかなか到達しない、という今と、雑誌を読んでいると、無関係な情報まで得られたという昔の状況との対比と似ている。

デジタルは「何かの目的の達成」にはとても便利な道具だ。
時間の節約にもなるだろう。
しかし、道草がない分
「驚くべき何かを発見する」
ということには、向いていないとも言える。

熊楠の知の構造は、「道草から驚くべきことを発見する方法」だったのではないか。
それは、今の時代には逆に得ることが難しくなっている知の構造のように思う。