空き家問題と待機児童問題の類似性

田舎に行く。
住み家を探そうとする。
「空き家、いっぱいありますよ」
町の人の言葉とは裏腹に
「さっぱり空き家が見つからない」

実のところ空いていないのだ。
「盆や正月には都会から戻ってくるから空き家ではない」
「昔からの家財道具が置いてあるので貸せない」
「先祖代々のものを他人に売ってはご先祖様に申し訳ない」

たまたま、今日の朝のニュースを見ていたら、待機児童問題をやっていた。
「対策として、保育所を作るといったら、地域住民が猛反対」
というお話。
「閑静な住宅街に保育所を作るなどありえない」
という千葉県の話も記憶にあたらしいが、今回は、
「子供の遊び場の公園をつぶして、保育所にしたら、遊び場や地域の交流の場所がなくなる」
という杉並区のお話し。

空き家問題と保育所問題。結構似ているなと思った。
「幸福と将来の幸福のどちらを選択するか」
という命題のようなのだ。

自分の過去の記念でもある家を持ち続けることは、今の幸福の維持。
ただ、将来、その家は「負債」になることもあり得る。その時には不幸が訪れる。
全てではないが、そうやって朽ち果てた集落は日本に少なくない。
もし、家を活用してもらい、移住者が増えれば、人口が増え、新たな価値が生まれるかもしれない。
勿論、よそ者がやって来ることが「必ず幸福である」とは言い切れないが、将来の幸福、が得られる可能性はある。

保育所も同じ。
閑静な住宅街も、遊び場も、今の幸福の維持。
ただ、保育ができなければ、子育てのハードルは高いことに他ならない。子供がいないということは、将来の大人がいないということ。
気付いたら、「老人だけの街」という、不幸が訪れるのではないだろうか。
保育所があり、こどもが増えてくれれば、将来の町を支える大人ができる。
これは、将来の幸福につながるだろう。

今の幸福か将来の幸福か、はあくまで選択の自由。どちらが正しいということではない。
将来の幸福のために、今と将来の全体最適を探せば、移住者が増え、子供が増える。
そういう町は、持続性を獲得する。

さて、どうするべきなのか。
最終的には、選択が働いて、歴史が証明する、ということになるのではないかなと思うのだが。。。