教育を改めて考える

地域活性化という文脈の中で、
「やっぱり教育が大事だ」
と言われるようになった。
特に、この数か月、急に増えた気がする。

私自身も、地域活性化の仕事がメインだったはずなのだが、今いただいているお仕事には、
「高校の魅力化」

「小中学校の教育のあり方の検討」
のようなものも含まれているし、

一種ライフワークかな、と思いつつ、
「教育を測るためのフレームワーク」
を作れないか、ということに、実質的にはボランティアで関わっている。

「ものの考え方」の一つとして、「数学」というものを考えてみる
というような研修プログラムも昨年から開始し、思った以上に好評で自分でも驚いた。

 

ふと、
「地域」と「教育」
という2つの言葉を並べてみたとき、一つの事が浮かんできた。

ゴー、という音を立てて阿賀川沿いを走る、磐越西線に乗車していたときのことだ。

「高齢者を大事せよ、高齢者の経験が役に立つことがある」
という昔からの訓えと
「高齢者はスマートフォンは使えない。だから、IoT化では対応できない(、だから人が必要だ)」
というノスタルジーが前面に出る言葉との違和感だ。。。
(ちなみに、私の父は80歳に近い年齢だが、PCもスマートフォンも使えるし、昔、自宅にLANを整備していた時期もあった。父を見ていると、高齢者が使えないのではなく、使える人と使えない人がいて、使えないと思う人は単に努力が足りないだけだ、と思う。)

 

昔は道具の進歩が遅かった。
だからこそ、その道具を”うまく使うための”「経験・技術」がものを言う。
つまりは年輪。
だからこそ、高齢者の経験というものは素晴らしいものであったと言えたのだろう。

が、今は、違う。
道具の進歩が非常に早い。
経験で積み上げたものですら、あっという間に、道具が追い越していく。
AIは、まさに、それを全方位で可能にすると言っているようなものだ。
(ちなみに、私は、AI信奉者ではない)

つまり、
「経験を積むこと」<「新しい道具にいかに早く使えるようになるか」
の時代になっている、と言えるだろう。

この時、経験優位だった時代の
「大人」>「子ども」
という不等号が、この一種相転移のような状況を踏まえて、
「大人」<「子ども」
に変わっている

ということに、そろそろ気づかないといけないのではないか。

にもかかわらず、相変わらず、
「教育はどうあるべきか」
「地域の子どもはどうあるべきか」
ということを、
「大人、その中でも、高齢者と言えるであろう人々が議論している」
ということはおかしくないか。

いや、
「子どもが自分の将来のための教育など議論できないだろう」
という声が聞こえてきそうだ。

おっしゃる通り。

だからこそ、
「大人が議論するのであれば」
まずは、
「大人」>「子ども」
を取り戻す努力を大人がしないといけない、のではないか

子どもの教育を考えるなら、大人は、子ども以上に道具や技術に興味をもち学び、自分のものとし、
コミュニティースクールは、地域が子どもと学ぶことで、大人が実は学ぶのだ、という気概をもち、
子どもに「かくあるべき」ということを、自分はできているのかと「自問自答」し、
そして、大人の中には、実は「教師」や「教育に関わる人々」も含まれているということを、自覚する

もちろん、大人は、新しい道具や技術だけではなく、自然から学ぶ、といった広い視野を持っていることも必要だろう。

そういうことなんだよな、と思っていたら、喜多方駅に到着した。

美味しい、塩ラーメンを食べに行きます。